多重世界(パワレルワールド)と時空間を放浪する、とあるパラレルタイムトラベラーの記録史
Parallel Time Stranger(パラレルタイムストレンジャー) 【tatsu】OFFICIAL-HP
戻る

時間  寝てない時間をするのは悪い事じゃない。でも、無意味な「寝てない」程クソな事は無い。
 ゲームしてた、遊んでた、ボーっとしてた・・・だから寝てないというのと、勉強してた、努力してた、頑張ってた、だから寝る時間が無かったというのは違う。
 まあそれもそうなんだけど、それだとしても、例え年齢が一緒でも「人生の経験時間」は違ってくる。
 例えば、僕の平均睡眠時間は4時間。君の平均睡眠時間が7時間だとする。
 仮にこれが20歳から始まり、今、30歳だとする。つまり、10年間。
 1日3時間の差だけど、1年で1,095時間。10年で10,950時間もの差が生まれる。
 この10,950時間を1日4時間睡眠で逆算すると、547日。つまりはおよそ、僕は君よりも「1年半、人生を長く生きている」という事。
 1年半あったらどれだけ人は学べると思う?どれだけの体験が出来ると思う?どれだけの成長があると思う?
 眠いのはわかる。寝たいのもわかる。楽だし。
 でも、寝るのは死んでからでいいんじゃない?死んだ後は好きなだけず~っと寝れるんだから。
 せっかく生きてるんだから、生きてる時はちゃんと生きて、喜怒哀楽を全てを受け止めて、やりたい事全部やろうよ(*''▽'')
楽しむ  楽しくない事なんて、実は何もない。全ては、楽しい事でしかない。要は、気の持ちよう。
 だから楽しい事がやってくるのを待つんじゃなくて、楽しい事を常に探していこうよ。
 楽しい事を見つけるたびに、そこに笑顔が生まれる。ちょっとした事で笑いあえる。そんな家庭を築きたい。
 人生で楽しい事は、進化していく事だと思う。一つの楽しいを知ると、そこからもっともっと楽しいが広がる。
 例えば、知らなかった作品と出会う→その作者の他の作品を知る→好きな作品とたくさん出会う これも一つの楽しみ。
 だから僕は何でも挑戦したい。何でも学びたい。何でも経験したい。せっかくの人生だから、とことん楽しむ(''ω'')
プレゼント  プレゼントは、「命の破片」をもらうのと一緒。 限られた短い人生の中で命(時間)を使った結晶。
 プレゼントを買うお金を稼ぐ為に働いた時間=命。 プレゼントを選ぶ時間=命。
 そして相手を想い、プレゼントは何にしようかと悩んでる時間、相手に渡すまでの時間、渡した後の時間も「喜んでくれたかな?」と考える。
 だから、どんなプレゼントも、「命懸け」なんだよ。命削って君に渡すのだから。
 だから、僕はどんなプレゼントだってもらえたら嬉しい。心から感謝して受け取る。それは、君の「命の破片」なのだから。
感謝  人に何かを頼むとき、そこあるのは結局は「自分の利益」であり、「相手にとっての不利益」だ。
 自分に出来ないから誰かに頼む訳で、その代償として例えば「お金」が発生したりする訳で。
 そうやって世の中は回っていて、「自分の利益の為に行動してくれた相手に、感謝をもって御礼をし、相手にとっての利益にもなってもらう」のが当然。
 例えば、自分で野菜は作れないから農家の人にお金を払って野菜を売ってもらう。という事。
 でも、悲しい事に世の中には「買ってやってる。こっちは客だ。」と物事を考える人が多い。
 もっと言えば、「たくさんあるんだから、1つくらい無料で頂戴よ。ケチだなあ」と考える人も多い訳で。
 やってもらって当然、優しくされて当然、かまってもらって当然、助けてもらって当然・・・マジで考えを改めた方がいいと思うよ。
言い訳  イラっとする「言い訳」でNo1が「やるつもりだった」「これからやる予定」「やろうと思ってた」。
 この言葉を発する人はほぼ確実に「何もやらない人」。口だけで行動しない人。
 TVドラマで、「この人最初からなんか怪しいと思ってたんだよね」くらいにイラっとするよね(笑)。
 競馬なら「①番買ってたけど、やっぱり③番が来たか~。そんな気がしてたんだよ~」っていう人(笑)。そんな気がしてるなら買っとけよっていうねw
 言い訳は「自己擁護」です。「自己擁護」は自分を正当化するだけで、何も解決はしない。
 こういう事言うと誤解になるかもだけど、遅刻した理由を述べるのは言い訳じゃない。よく「言い訳するな!」って言ってる頭悪い上司いるけど。
 遅刻した理由を述べるのは「事実報告」だから。
 だから大事なのは、「なぜ遅刻したか。その分析と今後の対応の検討」であり、遅刻を繰り返さない為の改善と行動が必要なんだ。
資格  資格取得は、そう簡単な事じゃない。どんな資格だって、無知なら取れない。勉強と訓練が必須。
 もちろん資格取得は入り口でしかない。大切なのはこの先どれほどの実績と経験を重ねるかであって、資格取得は終着点ではない。
 当たり前だけど、資格を取るという事は「あるレベルを超えた事が認められる」という事。
 そして資格取得の勉強は「本来得られない知識を学べる」チャンスでもある。こればっかりは、経験だけではどうにもならない。
 もちろん、資格が無くても腕の良いドライバーとかいる。資格が無くても実績と経験で優れた能力の人はいる。
 だけどもし、あなたの子供が病に倒れ、目の前に①正式な医者と②無資格の医者がいたら、あなたはどちらを頼りますか?
 2人の技術が同じだったとして、もし子供に何かがあったのなら世間はみな「②は無資格だから失敗して当然だ」と言うでしょう。
 資格は、ある意味の自己防衛でもあり、そしてまた、他人の信頼を得るための「ツール」である。
 そしてまた、資格は取得するのには少なからずともお金がかかる。そのお金はもちろん、命を削って稼いだお金。
 だから例えば他人が遊びに使ったかも知れないお金を、僕は資格取得の為の教材費、受験費等に使っただけのこと。
 そして誰かが遊んでる間に勉強をして、それをずっとずっと繰り返してきて今のスキルを手に入れたという事。
 資格取得の勉強は楽しい。知らなかった世界を深く知る事が出来るし、新しい世界の扉が開くから。
新しい世界  資格取得や未知なる挑戦をはじめとした”行動”は新たな知識や経験を手に入れ、そして次の扉を開く。
 例えば、何気に見た映画がすごく面白かったとする。じゃあ、どこが面白かった?
 映画を観る時、脚本家は脚本が気になるだろう。音楽家は音楽が気になる。衣装さんは衣装が気になる。
 映像に関与すればするほど、撮影、カット割り、照明、色深度やピントが気になり、役者に関与すれば芝居や台詞回しが気になる。
 業務に関与すれば配給やマーケティングが気になり、さらには上映する映画館の設備やレーベル展開とかまで気になる。
 何が言いたいのかというと、1つ新しい世界を知ると、同じ映画を観ていても「手に入れる情報量」が違う。
 僕が小学生の時に見た映画を、その後に役者やって作家やって演出やって映像関係やってきた今の僕が観ると受取る量が違う。
 セットや小道具もたくさん作って来たし、電気系から特殊メイク、基本何でも一人でどんどん経験して学んできた。
 「あのCGはどう作った?」って思えばその解説書を調べたり実際に真似して作ってみたり、とにかく”知る”のが楽しい。
 昨日の自分よりも1歩進んだ自分がいて、そこからまた新たなアンテナが張ってどんどん吸収していく自分がいるから。
 1つから受取る量が違うという事は、全ての経験から受取る量も違う訳で、だからとにかく行動していく人ってのはどんどん進化していく。
 その進化は「アイデアが出る」という形で現れる。だから、アイデアの出ない人って言うのは圧倒的に視野が狭い人だと思う。
 アイデアが出ない。自分の意見が正当だとしても解決策になってない。口だけ。否定から入る割には何も代案が無い。。。
 自分の世界が唯一で、自分の世界が絶対で、それを超える世界を拒絶する。つまり、井の中の蛙なわけで。
 もちろん、10年後の僕が今の自分を見たら「井の中の蛙」だ。だけど、だからこそ最初の1を知るのはとても大事な事だと思う。
映像に
こだわる理由
 例えば舞台は、今そこで起こっている「現実」であり、生でリアルの空気感がある。それは舞台にしかない特権。
 しかし、それは”一方通行な押し売り”であり、実際観てもらうには「相手の都合」が必要。
 そこに行くまでの交通費も、舞台のチケット代もお客様が払い、さらには手土産を持って行ったり花を出したりもする。
 そうやってまでお客様はわざわざ観に行く。しかしそれを理解していない演者が多すぎる。観に来てくれる事への感謝が薄すぎる。
 「是非、観て欲しい」と本気で思うなら招待券と交通費を送るべき。「私に会いに来て」なんて、傲慢すぎる。
 実際に観に行っても、結局その舞台は「脚本家」のものであり「演出家」のものである。
 演者と言ってもは実際は「演出家の思考通りに動くコマ」であり、それは別にあなたでなければ別の誰かがやるだけ。
 舞台は、「観に来てくれた人にしか伝えられない」。どんな気持ちも、どんな思想も、どんな言葉も。
 対して、映像は相手の都合の良い時に、無料で届けられる。そして何よりも、「その瞬間を、ずっと未来へ残せる」。
 映像は「あなた」でなければいけない。なぜなら、例えばあなたの顔がアップで映る1カットがあるなら、その瞬間は「あなたが主役」だから。
 その1秒は、あなたがいなければ成り立たない。映像の世界で大事なのは演者だから。
 映像はその時の全てを、例えあなたが死んでも、時代が変わっても、ずっとずっと残せる。何度でも、誰にでも、時間も距離も超えていける。
 だから僕は”映像”にこだわる。どんな映像でも、いつの日か誰かの未来を変える時が来るって思うから。
自分に
何があるか
 「〇〇の社長と知り合いです」「〇〇さんとLINE繋がってます」「〇〇が出来る人に話し通せますよ」
 例えば、ノーベル賞獲った方と一緒に写真撮ってそれをSNSに上げて「すげー!」ってコメントが入ってそれで自分もそっち側だと錯覚。
 当たり前だけどノーベル賞獲った人が凄いわけであって、だけど心のどこかで「この人と一緒に写真撮ってる自分ってすごい」ってなってる。
 普通の人ならそれでいい。でもクソダサい。そうじゃないだろ。
 そしてまた、それは「相手を利用している」のと変わりない。相手の過去の栄光を利用して自分に化粧しているのと変わりない。
 「〇〇を育てた人にダンス教えてもらってるからそこら辺の奴と一緒にしてほしくない」とか「〇〇大学出たから中卒の馬鹿と話したくない」とか
 「〇〇と一緒に仕事したことあるから、自分もそっち側」とか、意味が解らない。
 大切なのは自分に何が出来て、自分がどういう努力をして、自分がどういう結果を創って、自分がどういう影響を残したか。
 化粧したり大きく見せたり誤魔化したりするのではなく、裸の自分に何があるのかということ。
 それを他力で与えられた環境で、他力の影響力でさも自分も自分も高いと錯覚。よ~く考えて欲しい、「あなたは何?」と。
 本当に大切な事は、自分と繋がってる事を自慢してもらえるような、そういう自分になる努力を続けるという事だと思いませんか?
 だから理想は、ノーベル賞獲った人とお互いから尊敬を持って対等に握手しながら一緒に写真撮る事であって、これは何かというとつまりは「ビジネス」という事。
 自己利益と他者利益の均衡こそが大事であり、そこが自己中心で他者を道具としか見ていないのであれば前に進むはずはない。
 時が過ぎて振り返って気付く。「何も残ってない」という事に。「何も成長していない」という事に。ただただ、「その気になって勘違いしてた」という事に、気付く。

Parallel World Stranger [tatsu] Official-HP